左様であるならば

友人が引っ越すと言う。
そのことを書こうとペンを執ったら、彼女との思い出が蘇ってきた。

私達はまだ若く元気であった頃のこと、10余人の仲間がいて、いろいろなことを計画し、実行した。
中心的存在であったHさん、Tさんはもうすでに亡く、今回、夫妻も別のマンションに行ってしまう。
楽しかった日々が遠く去って行くのを実感している。

「向こうに持って行けないから処分するけど、ゴメンね」
と電話があった。

10年近く昔、私はウイスキーの樽材で作った植木鉢スタンドを手に入れた。
しばらく使っていたが、もっと背の高いものが欲しくなり、黒塗りの樽材の分をもらってくれる?と伝えると、「玄関にちょうどいい」と喜んで引き取ってくれた。

彼女の家の玄関にはいつも花や観葉植物が、その植木鉢スタンドに入れられていた。
私はそれを見るたび嬉しかった。

もう充分に役目を課してくれた。
黙って捨てても何ら支障はなかったのに・・・・・。
大人の作法とはこのことだと、心の深いところまで浸透してゆく気分を味わった。

友人は遠くへ行くのではない。
ちょっと先にある息子さん一家が手狭になったので、住居を交換するらしい。
広いところは、年寄り夫婦にとって維持するのが大変だからと。

すぐ近くとはいえ、住む空間が違えばバッタリ会う機会はぐっと少なくなる。
同じマンションの住人ではなくなってしまうことがどういうことか。
それはきっと、満たされていたものが1カ所欠けてしまうことに等しいだろう。

年を経ると、消失したり減少したりするものに気付いて、愕然となることがある。
けれども、私は今まで前ばかり見て生きてきたから、その時も怯むのは一瞬ですぐ復活したが、昨今はあまりにも時間がかかる。

自身が捨てるものも含めて、日々失ってゆくもののなんと多いことか。
それを、身が軽くなってゆく、と静観する境地にはまだ至っていない。

寂しがったり、憤慨したり、悪あがきしながら、やがては到達するのだろうけれど、まだ少し時間がかかりそうな・・・・・。

友人と私は同じ年、お互い自分を見ているように感じてきた。

(玉麗)

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