絵を教えるようになって40年が過ぎた。
私1人の時、教室では皆さんが「先生」と呼んでくれた。
松井さんが手伝ってくれるようになって、私は「玉麗先生」になった。
そのうち娘も加わり、玉麗先生・松井先生・雪先生の3人体制に加えて、助手や講師資格を取得した人も参加して、出張体験会はとても賑やかだった。
40年はけっこう長い。
玉麗会展を催し、デパートで個展開催するようになって、私は澁谷玲子から澁谷玉麗の顔になっていった。
いろんなことがあった。
「玉麗先生」は「玲子さん」が経験しなかったこと、いいことも嫌なこともいっぱい味わって、普通の2倍は働いたように思う。
そして今、きっと疲れまくっているのに違いない。
60歳ぐらいの体力のある80歳もいる。
けれども70代でも、元気な90代より劣る人だっている。
私は後者だ。
少し前までは認めたくなかったけれど。
私の心臓が時々言うようになった。
「もうちょっと楽してくれまへんか?」
郷里から今年もまた不知火(しらぬい)みかんが届いた。
M君からのプレゼント。
昨年も私が不調の時、送ってくれた。
ナンデ知ってんねン?
ブログ読んでるのか。
いや「スマホはあんまり・・・」と言っていたが。
ありがとう、この鮮烈な香り、シャキッとなるよ。
娘の友人達もブログを読んでくれているらしい。
彼女達は私のことを昔「オバサン」と呼んでいたように思うが、今は「玉麗さん」と言ってくれる。
「玉麗先生」から「玉麗さん」になりたいと思っている。
でもきっと、死ぬまでその時は来ないのだろうなあとも思う。
(玉麗)