親しい友と喋り合う

北千里の教室が終わったら、Uさんと2人、娘の車で千里中央まで送ってもらう。

ランチの時もデパートでウィンドウショッピングする時も、すっかり同級生にかえっておしゃべりは尽きない。

2人共後期高齢者であるから当然ゆっくり歩き、しょっちゅう立ち止まる。

以前のようにパキパキシャキシャキは出来ないけれど、気持ちだけはちっとも変わらない。

娘によく言われる。

「同級生だからいいじゃなくて、Uさんだからこそやねんで」

もう1人M子さんもいる。
親しい友は多くはいらない。

時にはグチを聞いてもらうことがあるが、喋ることの中身は大したことではない。
しかしそれが重要なのだ。

時折会って日常の些細なことを喋り合う。
それで日々の溜まっている「モノ」をスッキリ溶かす。

この作業が出来ていないと「モノ」は固まって、吐き出す時かなりのエネルギーを必要とする。

「モノ」を溜めた人がそれを吐き出す時、周りの人はたいてい巻き添えを食い、疲弊する、

エネルギーは楽しいことに注ぎ込みたいもの。

では、友人が全くいない人はどうするか。

 

実は私もそんな時代を経験したことがある。

離婚した私は、人を頼ることは弱い自分をさらけ出すことだと思っていた。

それがイヤでがむしゃらに働いた時期があった。
たぶん、エネルギーの全てを注ぎ込んで絵の道をひた走ったのだろうと思う。

ツライことやイヤなことはノートに書き綴った。
ノートはずいぶんたくさんたまった。

それを処分した頃、やっと身軽な自分に帰ることができた。

 

どこにでもある話だが、詳細はひとつひとつ違っている。

友人の大切さをしみじみと思う年齢になってきた。

(玉麗)

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