フクザツはキライ

おとなになるにつれて、また地球の歴史が増えてゆくにつれて、いろいろなことがどんどん複雑になっていくような気がします。

複雑な道、複雑な話、複雑な性格、複雑な説明、複雑な味、複雑な音階、複雑なしくみ、複雑にからまったチェーン・・・

私はあらゆる複雑なものが嫌いです。

だけど、世の中には複雑なものがたくさんあふれかえっている。これはきっと、誰かがしくんだワナであり、誰かにとって都合のよいシステムであり、誰かが儲けられるようにできているトリックに違いありません。

なぜなら、複雑はカンタンだからです。矛盾している?矛盾はまあまだ許せます。複雑よりはマシです。つまり、「複雑にすること」は「単純にすること」よりも簡単なのです。

単純は隠すことがない、むきだしゆえにかえって通り過ぎることもあります。それが洗練され、潔いまでに本質をストレートに現すものほど気づかないかもしれない矛盾。

でも複雑なパズルを前にすると人は解いてやろう、と立ち止まり考えます。本当は中身などスカスカであっても、目のまえにつまれたピースを手に時間を費やすことが、どうだ、これぞおとなのあり方だと勘違いしてしまう。

もちろん、複雑にするためには技術や時間、お金が必要かもしれません。でも、なんでもとにかく複雑にすればよいってものではないと思うのです。

 

 

「あれ?あの便利な機能がなくなってる!」

「なんだろうこの味は・・・・・普通でいいです」

「伏線が多すぎて疲れたよう」

「なにこれ?前のほうがスッキリわかりやすかったのに」

「いろいろ付いてるけど・・・使ったことない・・・いらないし・・・」

「あ〜あ、いつ終わるんだろうこの会議」

 

みんな飽きっぽい。とくに日本人は飽きっぽい。だからものをつくる人たちは大変だと思います。そんなにポコポコ新製品が生まれるわけがない。変化球で私たちの目をひきつけなければならない。

でも、複雑なトリックばかり考えすぎて、もともとのシンプルな良さがいつのまにか消えてしまっていないだろうか?つねに改革していることをアピールしたいがために、私たちを複雑な迷宮に追い込んでも平気になってしまっていないだろうか?

 

とくに私は、ああだこうだとただ議論したいだけのハリボテの会議がもっとも嫌いです。