私は簡潔に説明するのが苦手なので、母に質問してみました。
雪「絵心についての記事を書いていて、かくかくしかじか(電車が好きな男の子のエピソードを話す)と私は思うけど」
玉「そう、それで合ってる」
雪(心の中で、「YES!!」)
玉「つまり、何でもよいけど、これがすごく良い(恰好良い)のだ、と思えるものがあって、頭を使い、技術を磨き、さらにそれの恰好良さを追求していくこと。探究心を持ち続けて、もっと良くなるにはどうすればよいか、とさらなる高みを目指してゆくことだろうな」
スーパーナントカから思わぬ高尚な話に発展して、驚きを隠せませんが、この展開はいつものこと(私のささいな質問から、話がビッグに広がる)ですのでなるほどと深く感銘した次第です。
絵心のきっかけとなるものは、まず「好奇心」だと思います。幼いこどもの頃はみんなが芸術家であると言われるのは、こどもが好奇心にあふれていることからなんでしょうね。
知恵がついてくると悪知恵もはたらく。雑念も増えてくる。悲しいこと、つらいことを知る。環境の変化、あらゆる外的要因がこどものやわらかいこころをカチカチとかためてゆき、いつしか純粋な好奇心だけで毎日わくわくと生きてゆくことはできなくなる。
ところで、「悲しいことを知る」についてですが、私はこどもの頃の記憶の中で、自分の「悲しい感情」の目覚め?の瞬間を覚えています。小学校2、3年生のころだったと思いますが・・・・
ともだちに何かイヤなことを言われた(された)ことがあったのだと思いますが、そのときに心の中で、「◯◯ちゃんはなんであんなことをするのだろう、◯◯ちゃんキライ」と思いました。そして、その「キライ」と思った自分に気持ちに対してものすごく不思議というか悲しい感情が生まれたのです。
「あれっ?今なんで◯◯ちゃんキライって思ったんだろう、ともだちなのに、なんでだろう、これは何だろう」すごくそれが楽しいの反対、もやもやとした気持ちになって、戸惑ったことをなぜか今でもよく覚えています。イヤなことをされたという事実以上に、そのいわゆるマイナス感情が重くて重くて。
それまでもおそらく当然イヤなことはあったはずです。幼稚園のころとか。おそらくその頃はまだ感情の芽生えの開発途上中だったのか、ただ事実として受け止めていたようです。良く言えば純(じゅん)な、つまりかなり鈍(どん)なこどもだったようです・・・!(純と鈍という字は似ていますね。じっと見ていると・・・)
怒りとか悲しみとかのマイナス感情は、平和で楽しい感情よりエネルギーが強いものだと思います。その初めて感じたエネルギーの強さに動揺した、ということだったのかもしれません。
話がそれましたが、脱線ついでにもうひとつこどものころの不思議な感覚についてのエピソードを。何にでも「初めて」というファーストステップが必ずあります。私の「海」初体験の思い出。
こわくてこわくて、砂浜は足がズズズとなるし、暑いし、抱っこされて泣いていたそうです。実際にはそれが初めての海。それは母から聞いたことで、私自身が海を実感したのは次の出来事です。
複数の家族で海に行きました。その中に、とても化粧の濃いお姉さんがいました。(真っ赤な口紅が印象的でした)
海の中に入った私は浮き輪でプカプカ浮いているのですが、どうしても海水が顔にかかってしまいます。くちの中にも入ったはず。
「からい!」初めてなめた海水は、なんて変な味なんだと思いました。塩水だからだという認識もなかったせいか、見た目は知っている水と同じなのに、なんでこんな妙な味がするんだろう、なんでだろう??と思ってふと横を見ると、あの化粧の濃いお姉さんが泳いでいます。
ああ、なるほど・・・・プカプカ浮きながら、お姉さんの真っ赤なくちを見て、私は納得しました。「謎はすべて解けた!」つまり、この水の味は、お姉さんの顔にべたべた塗ってある化粧が水にぬれてとけて広がって・・・その味なんだ!!
おとなになってから私の初めての海の思い出を母にすると、「ああ、たしか◯◯ちゃん!そういえば彼女は化粧が濃かったねえ」
こどもというものは無知であるがゆえに、突飛な考えを思いつくものです。それにしてもおとなの女性の真っ赤な口紅というのは、小さいこどもにものすごい強烈な印象を与えるのだなと思いました。
赤い口紅→なにやら強烈→からい海水の味、とイメージした私自身も以前、フォーマルな恰好でピシッと赤い口紅をつけて外出中、信号待ちで横にいた小さな男の子に、「なんでくち赤いの?」と聞かれたことがあるのです。(なんて答えたかは忘れました)
幼いこどもの頃はみんなが芸術家である→「 なつやすみこども講座 水墨画にチャレンジ:ドラゴンを描こう!」