先日の新聞で興味深い記事を見つけたので、ご紹介したいと思います。
産經新聞のスポーツ欄ですが、サッカーのW杯開催中、“スターは何故美しいのか” という特集が組まれているようです。6月24日は「絶対的水平感覚で倒れない」というタイトルで、コートジボワールのドログバ選手のことが載っていました。
(以下、『』内の太字は新聞記事からの引用です)
『ドログバをはじめアフリカの選手は身体能力が高いといわれるが、大きいからだとたくましい筋肉は、むしろ力を抜くためにある。力を入れるためにあるのではない。身体能力が高いとは、フィジカルリテラシー(体の使い方)とその感じ方が優れていることをいう。』
『・・・要は、ドログバの頭部が傾かなかったことにある。体は傾きながらも、頭は傾かずに両目を結んだ線が水平をキープしていた』
『草原で獲物を追いかけるライオンやチーターも、獲物の急激な方向転換に合わせて追走するときに、体は傾かせながらも、頭部は水平をキープする』
『ドログバやネイマールの美技も、人間に内在する野生の感覚が外に表れたものである。「美」には良い、優れたという意味がある。』
私は、この記事を読んで非常に感銘、感動しました。
なぜ感動したのか?いつも私が考えていることがまさにこれだったからです。水平感覚に限ったことではなく、人間の身体能力ということについてです。
なぜ絵を描く私が身体能力に興味を?文科系と思われますが、筆を持って描くという行為は、決して指先だけの狭い世界でおさまることではありません。
大げさかもしれませんが、細い線1本描く時でも、体全体でちからのバランスを取りながら描いているような感覚なのです。書道の経験がある人であれば、さらに大きな和紙に大きな字を描いたことがある人であれば、イメージしやすいかもしれません。
さらに、注目すべきは、ここ。『むしろ力を抜くためにある。力を入れるためにあるのではない。」そうなんです。教室でよく(あまりみんな聞いていないようですが?!)「筆を持つ力を抜いて下さい」と言います。
運筆を見るときに、筆の傾きや和紙の上にあらわれる筆跡で、いかにちからが入っているかが私にはよくわかります!
「こうです」と一緒に筆を持って手に少し触れたとき、すごくちからが入っているんです。ボカシという作業をするときもそうです。アミの上で、筆をガシャガシャと力一杯こすっている様子を見ると、思わず笑ってしまうほどです。(失礼!)
よく(あまりみんな聞いていないようですが)、「絵もスポーツも同じです、いかにちからを抜くかです」とうったえています。ですが、ちからを抜くということはとても難しいことなんですね。優れた身体能力を持つ選手たち、それは一体、生まれつき恵まれた能力なんでしょうか?
所作というものがあります。優れた結果は、美しい所作に導かれるものだと思っています。個性的でちょっと無理のあるような動きでも良い結果を出す場合もあるでしょうが、真に頂点にたどり着くのは、ひとつのシンプルな美しい野性的能力だと思います。サッカーもゴルフも絵もみな同じではないかな?
『世界一の一流選手がその優れた美しいフィジカルリテラシーを競い合う。それがW杯である。』
絵にも、公平で皆が楽しめ、リテラシーを競い合える場があればいいのに!