絵心とは何か〜ここがかっこいい〜

絵を描くことを仕事にしている、と人に言うとものすごく高い確率で返ってくるのが、

「(自分は)絵心がないから、絵はわからない(描けない)んです」

という言葉です。

 

過去にもそしてこれからも永遠に繰り返されるだろうこの言葉に、私は正直辟易していて、(最近は慣れてきて)はあ、そうなんですかと言うにとどまってしまいます。

ところで絵心って何?

おそらく、深い意味はなくて単に「絵がヘタくそである」「なんかよくわからないから絵心が無いって言っておこう」、あるいはマジメに「絵とかそういうなんか芸術っぽいものは、持って生まれた才能(=絵心)がないとダメなものなのだ」といったところでしょうか。

そう考えると、「絵心がないから〜」というセリフはなかなか便利なものですね。軽い挨拶代わりに、「また今度、飲みにいきましょう」という社交辞令のような感じでしょうか。きっと、私の職業を聞いて、はー。へー。というだけでは申し訳ないから、気を遣ってそんな風に言ってくれているのだと思うことにしよう。

 

これが音楽となると、「音心がないから音楽は聴きません(作れません)」なんていう人はまずいないし、「字心がないから字が書けません」ていうのも聞いたことがないんですよね。

音楽だって誰もが作ることができるものじゃないけれど、誰もが好きな歌や歌手、思い出の曲が必ずあるはず。音楽にあまり興味のない私の母でも、好きな歌はあるし、自分が歌わなくても(いいなあ)と思う歌手はいるのです。

 

つくづく、絵画(とくに水墨画!)って特殊で不思議な立ち位置にあるのだなあと思います。マンガ、アニメ、イラスト、と変化するともう少し親しみやすくて、とっつきやすいものなんでしょうね。

そうか、音楽でもクラシックとなると(ああ、わからん)とちょっと引いてしまう人がいるのと同じで、何でも古典というのは現代人には理解しづらい、めんどくさい印象があるものなんですね。

 

ところで「絵心」に戻りますが、その言葉をみな使いたがる心理の裏側には、「芸術」というちょっと偉そうな感じのする大きな世界がバーンとなんとなく見え隠れするからではないでしょうか。よくわからないから適当なことを言って恥をかきたくないし・・・という我々にその敷居の高さを感じさせる「芸術」というなんだか曖昧なもの。

ちなみに、「敷居が高い」というひんぱんに使われるこの言葉、現代では「高嶺の花」っぽい意味合いで使うことがほとんどですが、もともとの意味は違うそうです。(上記では、あえて誤用してみました)

敷居が高い=「不義理や面目のないことがあって、その人の家に行きにくい」

というのが本当の意味だそうですね。私も知ったのはわりと最近のことです。あまりにも間違ったシーンで乱用されすぎて、「それは本当は違う意味なんだ!」と誰も言えない雰囲気になっているように感じます。

 

話がそれました。

 

絵心がない、なんて言わず(言いたい気持ちは理解しているつもりなので)単純に楽しめばいいのにな、と思います。だって、絵画の知識があるから、絵を描く技術を持っているから、だから素晴らしいのか?それが絵心なのでしょうか?

 

また話がそれますが、友達の家に遊びにいった時のこと。友達の息子さん(3、4歳くらい?)が彼の大切な電車の映像ビデオコレクションをたくさんみせてくれました。一緒に観よう、といってくれたのです。

そのビデオを観ながら、次々と登場するナントカ列車やスーパーナントカの解説を一生懸命私にしてくれました。彼の熱心な説明に、電車には詳しくない私も「ふーんそうか!」と映像に魅入っていました。その時、とても印象に残ったことがひとつ。

私が、「この中でどれが一番好き?」と質問すると、んーと、これ!と言ってみせてくれた、スーパーナントカ。その電車が登場するシーンは、線路に軽くカーブがかかっていて車体がすこしななめになって現れるのです。それを指して「これ!これのここがかっこいいねん!」

彼の言う「これのここ」とはおそらく、車体がかたむいて登場するその構図だと納得しました。なるほど、これはほかの電車と違うねえ、かっこいいね!とうなずく私に、理解者を得たとばかりにそれから何度も同じ映像を繰り返しみせてくれたのでした!

「これのここがかっこいいねん」こそ、彼の絵心的なものではないかと私は思うのですが・・・。

 

字心がない→「絵心とは何か〜字、ヘタなんで〜」